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即時的な教訓に惑わされず、情報への「感度」を高くする

書店に足を運ぶたびにいつも思うが、いわゆる「自己啓発本」はどうして安定した売り上げを保っているのだろうか?

売れているだけ多くのニーズがあることは確かなのだろうが、どうにも腑に落ちない。というのも、店頭でこの手の書籍を何冊かめくってみたが、そこで主張されているのは大体似たようなことだからだ。

「成功する人間は~する」

「一流と二流(一番嫌いな言葉かもしれない)の差は~だ」

「~といった習慣を持つべきだ」

語り口は往々にして上から目線で、絶対的なものであるかのように巧妙に装われている。筆者の主義主張をあたかも戒律のように仰々しく見せる文章のレイアウトなど、その一例だ。自己啓発本愛読家の人は、多少なりともこういった商業的な戦略に付き合わされていることを意識する必要があるだろう。

そもそも筆者がどの程度自分が書いたものを本当に理解して、実践しているかもわからない。

何十人、何百人がほとんど同じようにいじり回してきた「やるべきこと」や「真理」は、薄っぺらな言葉遊びに落ちぶれている可能性もあるからだ。

古代ギリシャの哲学者プラトンは、吟遊詩人たち自身が歌っている内容をろくに理解していないとして嘲弄したが、これは現代まで続く問題意識ではないだろうか。

 

それでもこういった書籍から本当の意味での学びを得るためには、読者が意識しなければならないことがあると思う。

それはただ漫然と情報に触れるのではなく、いかにそれをものにするか、平たく言えば有意義な情報に対する感度を上げるしかない。たとえそれが、いわゆる「自己啓発本」的なものとは異なる、一見すると気付かないような媒体に隠されていたとしても、至言を見つけ出して自分のものに出来るかどうかが肝要だ。

・・・などと書いているとこちらまで自己啓発本の執筆者になった気分だからそろそろやめておこう(笑)。

 

乱暴なまとめ方になるが本当に身になる教訓は、何の目的性もないように見える文学作品などにあるのではないか、というのが一文学院生の意見だ。

最後に現代フランスを代表する哲学者ジャン=リュック・ナンシーの言葉を引用したい。

 

書物は手段とならず、また相関して、目的の範疇にも片づかない。というのも、自らの外に目標をもたぬ以上、その内においてもまた、いかなる作用の目標ともなりえぬのだから。

 

「手段にも目標にもならない書物(ここでは文学作品)」の中から自分だけの言葉を探す。

そんなある種の宝探しゲームによって、初めて大切な手掛かりは見つかるのかもしれない。