「文学部不要論」に反論する

人文科学系の学問、特に文学部に対する社会的な無理解や偏見はどこから生まれてくるのか?

そして就職活動における文学部の「強み」は何もないのだろうか?

就職活動が無事に終了してから今まで出会ってきた人たちの話、様々な媒体に載せられた就活コラムなどを見ていて痛感したのが文学部に対する根強いネガティブなイメージだ。

以前文科省が国立大学に宛てて人文系学部の組織再編を促す通達を出したことは記憶に新しい。激しい反発に対する文科省の釈明によって事態はうやむやになったものの、一連の騒動は「文学部不要論」の台頭として国内外を問わず反響を呼んだ。

筆者がこうした文学部の弱い立場を痛感したのが学内でのOBOG企業説明会だった。配布されたパンフレットを見ると、各業界の一流と呼ばれる企業で活躍する社員たちの出身学部と仕事のやりがいなどが書かれていた。一通りめくってみると、出版業やマスコミなどを除いてほとんどの企業の社員が「非文学部」出身だった。

まさか意図的に文学部出身者を排除したということは無いだろうから、実際に社内での文学部率はかなり低いのだろう。少なからぬ業界で、「実学」では無い文学部を敬遠する傾向があるようだ。これは四年制の学部の話で、それが大学院ともなれば偏見の強度は圧倒的に強くなる。文学を専攻する院生は「人生を半分捨てた奴」「社会不適合者」などのレッテルを貼られる。

 

最初の疑問に戻るが、本当に文学を学ぶことは無意味でいわゆる就活での「強み」も無いのだろうか?間接的には大いにある、というのが個人的な答えだ。

 

  1.資料収集や議事録作成など、リサーチ力と要約力がつく

まずは即戦力としての強みだが、経営戦略や事業投資などを進めていくにあたって避けて通れないのが該当する分野に関する情報収集だ。とはいえ情報は世の中に膨大に存在し、適切なものを峻別することは簡単にはいかない。数ある資料から内容的に良い情報を見抜く力は、本を読むことで「文章慣れ」した人に備わるケースが多い気がする。同じ理由で要点を抜きだす力も文学部の特性と言えよう。

  2.「思考の持久力」が鍛えられる

期間・課程はどうであれ文学研究をするなら、膨大な量の文献を読んだ上でそれらを反芻し、論文・レポートという形でアウトプットしていく過程を避けることは出来ない。文章を緻密に読むという作業は、それだけでも忍耐力を養う効果があるのではないだろうか。そして、このような思考の持久力が強化されるとどのような結果が生じるか。

  3.「答えの不在」に耐えられる

実生活で何らかの問題が生じたとき、それに対する何らかのソリューションが存在する。それらは努力や勘で見つけられるだろうが、文学の場合そうはいかない。作家が本当に言いたいこと、作品の答えを文献から探し出すことはめったに出来ない。絶対的な答えが存在しないことはビジネスの世界も同じだろう。その都度臨機応変に切り口やプロセスを変えながら、出口の見えないトンネルを進んでゆくことは文学部の得意とするところだ。

 

このブログは主に自分に向けて書いてきたつもりだが、今回は書いたことを就活生にも伝えられればと思っている。特に文学部に所属していて、就活にあたって自分の強みや特徴を「発明」することに戸惑っている人には、はっきり言っておく。

 

目前の学問に対して全力で打ち込め

「就活受け」など気にして薄っぺらな経験を身にまとうのはやめよう

見た目だけかっこいい人間にはなるな

 

 

即時的な教訓に惑わされず、情報への「感度」を高くする

書店に足を運ぶたびにいつも思うが、いわゆる「自己啓発本」はどうして安定した売り上げを保っているのだろうか?

売れているだけ多くのニーズがあることは確かなのだろうが、どうにも腑に落ちない。というのも、店頭でこの手の書籍を何冊かめくってみたが、そこで主張されているのは大体似たようなことだからだ。

「成功する人間は~する」

「一流と二流(一番嫌いな言葉かもしれない)の差は~だ」

「~といった習慣を持つべきだ」

語り口は往々にして上から目線で、絶対的なものであるかのように巧妙に装われている。筆者の主義主張をあたかも戒律のように仰々しく見せる文章のレイアウトなど、その一例だ。自己啓発本愛読家の人は、多少なりともこういった商業的な戦略に付き合わされていることを意識する必要があるだろう。

そもそも筆者がどの程度自分が書いたものを本当に理解して、実践しているかもわからない。

何十人、何百人がほとんど同じようにいじり回してきた「やるべきこと」や「真理」は、薄っぺらな言葉遊びに落ちぶれている可能性もあるからだ。

古代ギリシャの哲学者プラトンは、吟遊詩人たち自身が歌っている内容をろくに理解していないとして嘲弄したが、これは現代まで続く問題意識ではないだろうか。

 

それでもこういった書籍から本当の意味での学びを得るためには、読者が意識しなければならないことがあると思う。

それはただ漫然と情報に触れるのではなく、いかにそれをものにするか、平たく言えば有意義な情報に対する感度を上げるしかない。たとえそれが、いわゆる「自己啓発本」的なものとは異なる、一見すると気付かないような媒体に隠されていたとしても、至言を見つけ出して自分のものに出来るかどうかが肝要だ。

・・・などと書いているとこちらまで自己啓発本の執筆者になった気分だからそろそろやめておこう(笑)。

 

乱暴なまとめ方になるが本当に身になる教訓は、何の目的性もないように見える文学作品などにあるのではないか、というのが一文学院生の意見だ。

最後に現代フランスを代表する哲学者ジャン=リュック・ナンシーの言葉を引用したい。

 

書物は手段とならず、また相関して、目的の範疇にも片づかない。というのも、自らの外に目標をもたぬ以上、その内においてもまた、いかなる作用の目標ともなりえぬのだから。

 

「手段にも目標にもならない書物(ここでは文学作品)」の中から自分だけの言葉を探す。

そんなある種の宝探しゲームによって、初めて大切な手掛かりは見つかるのかもしれない。

 

 

 

 

「小難しさ」の功罪、「大衆」との手のつなぎ方

トランプ大統領の誕生、

フランス極右政党国民戦線の躍進

 

こういった出来事を例に挙げて、世界の右傾化と今後の情勢を憂慮する声は世界中に広がっている。とはいえ、強権的な統治者・後ろ向きな政治を望んだのは、疑いもなくそれぞれの国民なのだ。時の権力者が保守的、さらに言えば排外的な政策を打ち出したとしても、そういった政権が大多数の大衆によって担ぎ上げられていることを忘れてはならない。

ポピュリズム」に基づく権力の登場を危惧する意見は随分前から出てきている。古くは、100年近く前にオルテガのような哲学者が大衆の愚昧さとファシズムの台頭を批判しているのだから。

 

ところでこの「大衆」とは本当にバカなのか?どこかのテレビ局の前社長が言っていたように、一般人は無知蒙昧だから「選ばれた存在」であるテレビマンが彼ら彼女らを導いてあげなければいけないのか?

最近ルソー研究者の友人と話した時に知ったのだが、ルソーは大衆を「子供のように純粋無垢な存在」と定義したそうだ。確かに、一般に人は目の前に出された物事に飛びつきやすく、なんでも真に受けようとする傾向がある。

流行りのものを追い求め、世界のどこかで誰かが被っている不条理・不正義を知ると感情に流されて涙を流す。そしてデマや扇動に流されやすいところもある。

 

前述のトランプが主に貧困層の支持を得た背景には、シンプルな表現を用いて聴衆の心に入り込む演説を意識したからで、反対にヒラリーは専門的な用語などによって演説を小難しくしてしまったところに敗因があるという。

「一般に人は中途半端にしか推論しない」

ヴォルテールの言葉だ。

衒学的な話し方、小難しさは人を遠ざける。本当に伝えたいことははっきりと、そして単純に表現するべきだろう。それは政治でも、ビジネスでも、はたまた人間関係でも同じことだと思う。仲間内でしか伝わらない言葉に力は無い。

振り返ってみると、謙虚さと共感力こそ人の心を掴むようだ。

 

外に出て人と語りあおう。